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2006.07.02

日曜日のミサ

仏教徒の私が今日は、教会のミサに参加した。

ミサに参加したのは10年ぶりの2回目。1回目は10年前、アメリカへ行った時、ホームスティ先のCさんと一緒にプロテスタントの教会へ行った時だ。

今回は、教会のお世話になることがあって(と言っても宗教的なことではないが)、そのご挨拶も兼ねて、出かけたもの。普段の日曜日とは違う「ハレ」の世界だった。つい先週まで日本語の講座を受けていた、その授業と同じような感じの「ハレ」だった。だって、ミサの間は手の届かないところにいるように思える神父様がミサが終わったら、雑談しているのだもの。そういえば、神様ミモザ(M先生)も「授業が終わればMさんよ」と言っていたっけ。

なぜ、教会の話を持ち出したかというと、今日のお話の中で「主は湖のそばにおられた」という一文に出あったからだ。先日のミモザの授業で、「おります」というのは関西では「います」と同じ。「おります」の尊敬表現である「おられます」は、あながち誤用ではないという話を思い出したからだ。その後も、「おられる」という表現は何回か出てきた。日本で教会に通っている日本語学習者への対応として、おぼえておくべきだと思った。とても貴重な経験だった。

今日の神父様は、日本人ではないけれど、お話は全部日本語だった。とても上手な日本語でびっくりした。モーティべーションが強ければ、これほどに上手になるものなのだ。タイのタイ語学校にもキリスト教の伝道のために、タイ語を勉強している人が多いと聞く。あまり若くない方もいるとか。私みたいに、のんびりと、ぐずぐずとタイ語を勉強するのも、それはそれで楽しいけれど、少しは辛い目にあわないといけないのかもしれない。

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